2012年02月07日

人生を変えた出来事

Ciao. spockです。

久しぶりの更新です・・・・って、前回から、もう7週間も経ったのですね。
なんせ、今年初の更新ですから。

12月の後半、特に23日以降は予約がびっしりと詰まっていたため(こんな事はオープン以来初めてでしたが)、年賀状を書くヒマもなく、年賀状を頂いた方には御無礼をしたままになっていますが、いつか近況報告的なはがきを出そうと思っているところです。
まぁ、忙しかったのは本当にありがたい事ですが、必ずしも「忙しい=儲けが多い」とはならないところが辛いところなんですけどね。

1月はその反動か、全くヒマで、1月としては最低なんじゃないかと思うのですが、そんなヒマな時でも、やる事は少なくならないんですよね。
その上、2月のヴァイオリンの発表会の曲に「難曲」を選んだ(習い始めて2年そこそこでクライスラーを弾こうというのが異常な事なのかもしれませんが)事もあって、そっちにも時間を取らなければならないし・・・・

まぁ、そんなこんなで、相変わらずバタバタしてますけど、充実した日々を過ごしている事には間違いないと思います。
あ、遅くなりましたが、今年もよろしくお願いします。


考えてみたら、このブログを書き始めて、もう5年経ったんですよね。
2007年の1月、劇団無尽舍の新年会に参加した時に、団員の1人から「ひだっち」という名前を聞き、それでこのブログを知って書き始めたわけです。
最初は当然、料理やワインの事を書くつもりでいたのだけれど、書き始めてみたら、料理の事は少しで、音楽やスポーツ、クルマの事ばかり書く事になりましたけどね。

もちろん、このブログに書いた料理の話を読んで、予約を入れて下さる方もおられますから、料理の事を書くのが宣伝になっている事は確かです。
でもね、自分の作る料理に関しては、どんなに詳しく書いたところで、実際に食べてもらわなければ解らないわけで・・・・逆に言えば、料理を食べてもらえば解る事なんですよ。
それ故、料理について書く事には、あまり気が乗らない事も確かなんですよね。
まぁ、根本的に捻くれた人間ですから、余計にそう思うのかもしれませんが。

でもね、こんなマニアックな一般的ではないブログ・・・・言い換えれば、不人気ブログ・・・・ですが、現在11人もの方に読者登録して頂いている事は、本当にありがたい事です。
ウチの料理と同じで、一般受けはしないけど「解る人には解る」という事なんだと思います。
これからも、超マニアックなブログを書いて行こうと思っていますので、引き続きご愛読のほど、よろしくお願いします。

さて今回は、極め付けのマニアック超長編です。
覚悟して読んで下さい。(笑)



この前(といっても去年の事なんだけれど)何気なくカレンダーを見ていて、ふと、あれから25年も経ったんだなぁ、と気がついたのですが、それはオレの人生を大きく変えた出来事でした。
その事をきっかけに生き方が180度変わった、と言ったら大袈裟かもしれないけれど、それくらいオレにとっては大きな出来事だったのです。
今回はその事について、思い出しながら書いてみます。
また、かなり長くなりそう・・・・というか、過去最長のブログになりそうですが。


今でこそ、アメフトだ、自転車だ、水泳だ、って言っているけれど、オレ、子供の頃は「スポーツ大嫌い少年」だったんですよね。
まぁ、球技が全くヘタ・・・・というか、球技というものに対して、ホンの僅かな興味さえ持つ事が無かったんで、経験もないし、上手くなろうなんて気持ちもないから、いきなり体育の時間にやらされても、できるわけがない。
それが、スポーツ嫌いになった原因だったわけです。

当時は、スポーツが得意なヤツは例外なくなく野球をやっていたけれど、オレは今でも、あんな小さい球をあんな細いバットで打つ、という行為が異常としか思えませんからね。
サッカーも体育の時間に結構やらされたけど、全員が右に左に大移動しているだけのつまらなさ、あるいは不毛さを、どうすれば面白く思えるのか、いまだに理解不能です。 
やりたいという気持ちが全く無い人間が、(体育の時間という限られた時間であっても)無理やりやらされる事ほど悲惨な事はないわけですよ。

小学3年の時、体育の授業でキックベースボールというのをやったのですが、転がってきたボールを目で追っていたら、先生が飛んで来て、何をしてる、って言われて思いっきり背中を叩かれた事がありました。
今思えば、そのボールを拾ってランナーにぶつけなければならなかったのだが、その頃は、そうしなければいけないという事も知らなかったし、そうしようという気もなかったわけです。
まぁ、そんな事もあって、自然にというより、必然的にスポーツ嫌いになっていったのだと思います。

とは言っても、身体能力は人並み以上にあったみたいで、クラスで北山へ走りに行った時も、1位になった事が何回かあったから、持久力も結構あったのだと思うし、後に肺活量を量ったら5000ccありましたから、他の人よりラクに走っていたのかもしれません。
50m走の記録なんかでは、たいていクラスで5番前後だったから、『選手リレー』なんていうのには出た事はなかったけれど、速い、普通、遅い、と分ければ、速い方には入ったと思いますね。
だから、運動会は結構楽しめたけど、球技大会なんて、苦痛以外の何物でもなかったですね。
まぁね、下手なりにそういう事を分析できていた事が、その後スポーツに興味を持ち始めた時の、進むべき指針になった事は確かだと思いますけどね。


ただ、スポーツはやらないけれど、見るのが好きなスポーツもあったわけで、そういう好みを分析すると、性格的な自分の好き嫌いというものがハッキリと見えてくるんですね。
オレの場合、1回動き出すごとにハッキリと結果の出るもの、を好む傾向にあるんですよ。
で、なおかつ、進行がスピーディーなものじゃないとダメなんです。

だから、サッカーみたいに、常にダラダラと動いているのは生理的に合わないし、野球は、ピッチャーだけは動いているけれど、肝心のバッターが動くまでに時間がかかりすぎるので、面白さが持続しない。
バレーボールなんかが合っていそうな気もしたけど、当時はバレーボール人気が最高の時代だったので、臍曲りなオレは見る気にもならず、むしろスピーディーなバスケットボールの方が面白いと思ってましたね。(とは言っても、あまり見る機会はなかったけど)
ゴルフなんかは、1回打った後、ダラダラと歩いているのがうっとおしい・・・・走っていけばいいのにねぇ。(スピードも得点に入れたら面白いと思うけど。)
一番面白いと思って見ていたのがボウリングでしたけどね。

そんな時、たまたまテレビで見て興味を持ったのがフットボール(アメフト)でした。
当時はフットボールの試合がテレビで中継される事なんて、年に2〜3回もあればいいところでしたが、そういう時はテレビの前で、ルールもよく分からないまま、真剣に見てましたからね。
日米選抜ティームの試合が日本であり、それで来日したボブ・ヘイズ(東京オリンピックの100メートル金メダリスト。その後、ダラス カウボーイズのWRとしてプレイし、72年のスーパーボウル制覇。誰も追いつく事ができないヘイズをカヴァーするために「ゾーン ディフェンス」が発達した。)がフルスタイルで『徹子の部屋』に出演したのもこの頃の事でした。(フルスタイルで登場したヘイズを見て黒柳徹子が「このお衣装はアメリカンフットボールの・・・・」って言ったのが笑えましたけど)

ただ、フットボールの情報なんて全然ないわけで、たまに週刊誌の特集なんかの記事があると、切り抜いて保存し、そういう少ない情報の中でルールを覚えていったわけですが、高校3年のある日、たまたま立ち寄った本町の中田書店で『アメリカンフットボールマガジン』という雑誌を見つけたのです。
すぐに買って帰りましたねぇ。
当時高山で、その雑誌を扱っていたのは中田書店だけで、月に3冊だけしか入らなかったので、発売日には必ず買いに行って、貪るように読んでいましたが、残りの2冊は、いつも売れ残っていたみたいでした。(笑)
まぁね、子供の頃から、他人と同じことはやりたくない、という性格でしたから、そういう状況も楽しんでいたのかもしれませんが。


見るスポーツは、そんな状態でしたが、実際にスポーツをやろうと思う事は全くなかったので、スポーツとは全く無縁の生き方をしていましたが、そんな中で、やるスポーツとして唯一興味を持てたのがボウリングでした。
投げればすぐに結果が出るし、交互に投げるのですから、緊張感を維持したまま速いペースで進める事ができる・・・・オレの求めるものがあったわけです。
高校生の頃は、ちょうどボウリングブームが過ぎ去った時期だったので、投げ放題500円、なんてのもありましたから、結構やりに行ってましたね。

社会人になり、20代の初めの頃、自分の投げ方に合うレーンコンディションのボウリング場を大阪で見つけたので、神戸から毎週通っているうちにボールを作る事になり、休日のたびに15ポンドのボールをかかえて大阪へ通ってました。
ボールを入れたバッグをかかえて一日中歩き回っていたのですから、今考えると、体力があり余っていたんだなぁ、って思いますが、ウデの方はあまり上達せず、ハイゲームが208でしたから、まぁ、そんな程度のものだったんでしょうね。

ボウリング熱が冷めた後、しばらくは何をする事もなかったのですが、20代から老化は始まる、なんて聞いていましたから、なんか運動をしないとダメだ、って意識だけはありました。
「25歳はお肌の曲がり角」なんてCMがありましたが、同様に体力も落ちていくはずですからね。
でも、そうは思いながらも、何をしたらいいのか、皆目見当もつかずにいる状態が続いていました。


そんなある日・・・・忘れもしない1986年8月8日でしたが、当時働いていた『ベルゲン』に、ある雑誌が取材に来たのです。
その雑誌は、創刊されて間もない『ターザン』で、「パスタでダイエット」という特集のための取材でした。
人生を変えた出来事
こんな封筒で送られて来たのを、今でも大切に保管しています。
人生を変えた出来事
その時作ったのが『イカ墨入りタリアテッレのカルディナーレ風』で、その作り方まで紹介されています。
人生を変えた出来事

人生を変えた出来事25年前のオレです。

その2日前に、店の仲間で夜中にクルマをとばして日本海まで行き、竹野浜で海水浴をして来たばかりだったので、日に焼けて顔が赤いんですけどね。

当時オレはセカンドをやってましたが、なぜかシェフとしてオレの写真が出る事になり、初めて全国紙に載ったわけです。(支店のチーフをやっていた先輩から、なんでお前が載るんだ、ってイヤミを言われたりもしましたけどね。)

取材にみえたのが、グーフィー森さんと、カメラマンの村林真叉夫さんでしたが、その時、見本紙として置いていかれた『ターザン』が、その後のオレの生き方を変えたのだと思います。




ちょうどその頃は、いわゆる『フィットネス』のブームが始まった頃で、その牽引役となったのが『ターザン』でした。
当時は、レオタードにレッグウォーマーとリーボックでエアロビクス、というのが流行りましたからね。
身体を動かさなければ、と考えていたオレにとって、ターザンは格好の指針となったわけです。

近所の本屋へ、ターザンのバックナンバーを全部注文し、ターザンを毎号買って読んでいました。
で、載っていた広告を見て、エクスサイズマシーンを注文し、筋トレを始めたのですが、想像していたほど筋肉が付かないんですよね。
いろいろ調べた結果、体質的にムキムキになるタイプではないようだ、という事が分かったのはずっと後の事ですが、その頃は諦めずに、しまいにはソロフレックスまで手に入れて、一生懸命やってましたけどね。
ちなみに、そのソロフレックスは、その後の度重なる引っ越しにも手放す事無く、今もウチにありますが。 

で、その後届いたバックナンバー(本屋の手違いで2冊だけ入手できなかったけれど)の第6号の中に、『見栄を張るならバタフライ』という特集があって、見開きで載っていた、当時の世界記録保持者ミヒャエル・グロスが泳いでいる写真を見て「わぁー、カッコエエ!!」って思いましたね。
人生を変えた出来事
それはミーハー的なカッコよさではなく、人間の身体の躍動感が、見開き2ページの写真いっぱいに表れていたんですよ。
で、その内容を読むと、バタフライの難しさについて書いてあり、スウィミングスクールでもバタフライのクラスになると急に落伍者が続出する、と書かれていたのですが、もともと捻くれた人間ですから、難しいって言われると、敢えて挑戦したくなるんですよね・・・・で、水泳を習いに行くことにしたのです。

週に一度、休日の夜にスクールに通い、初歩の水慣れから、クロールとバック、ブレストストロークを修了するのに5ヶ月・・・・週一にしては結構早く進んだと思います。
特にブレストストロークは、コーチから「速いですねぇ」というお褒めの言葉をもらって4回で修了しましたが、根本的にオレはブレストストローカーなんだと思います。
今でもプールに行くと、ブレストストロークしかやりませんからね。

で、いよいよバタフライのコースに入ったのですが、これが本当に難しかった。 
初回から、手足のタイミングは完璧に合っている、ってコーチに言われたのですが、どう頑張って泳いでも、全然進まないんですよね。
当時は今のようにyoutubeで映像を見る事なんかできなかったわけで、スウィミングスクールにあったヴィデオをダヴィングしてもらって、それをスロー再生して研究したり、連続写真で詳しく解説された『スイミング・ファースター』という本・・・・確か7000円位する高い本だったので、いつも本屋で立ち読みしてましたが・・・・を何回も見て研究したり・・・・
B型的執念で、とことん研究しましたねぇ・・・・でもね、上手くいかないんですよね。

ブレストストロークのクラスは1月もかからずに終ったのに、バタフライでは1年以上も悩み続け・・・・
ターザンに書いてあった通り、本当に難しかったけれど、落伍者になる事だけは避けたかった・・・・と言うより、なぜ上手くいかないのか、という原因究明に一生懸命になっていたのだと思います。
確か小学校の2年の時だったと思うけど、どうしても鉄棒の逆上がりができなくて、毎日夕方、親父と一緒に西小学校へ行って練習し、やっとでできるようになった事がありましたが、なんかあの時の事を思い出したりしていましたねぇ。

スポーツに限った事ではないのだろうけど、テクニックやスキルを身につけようとする時、どうしようもなく高い壁が立ちはだかる事がありますが、意外なきっかけから壁を打ち破れる事があります。
この時も、正にそんな感じでした。

ポートアイランドにあった市営プールは、休館日と店の定休日が同じだったので行った事がなかったのですが、祝日の関係で休みがずれた時、初めて行く事ができました。
で、泳いでいたら、すぐ隣で、おじいちゃんが孫らしい女の子にバタフライを教えていたのですが、その子もオレと同じように、バタフライで苦労しているようでした。
何気なくそっちを見ていた時、そのおじいちゃんが、こんな事を言っていたのです。
「もっと角度をつけて思いっきり頭から突っ込め。」
それはいわゆる『天啓』だったのだと思います。

バタフライの手足の動きは、クロールの動きを左右同時にしているようなものですが、クロールと決定的に違うのは、身体全体をうねらす事・・・・水面を縫うように泳ぐ事なんです。
それは充分過ぎるほど頭では理解していたのだけれど、身体はそのように動いていなかったわけで、うねりを出すために必要な、ある程度以上の角度で突っ込む事ができていなかったんですね。

それが分かればこっちのもの・・・・と言うほど簡単な事ではなく、動きにムダがあるせいもあって、結構疲れる泳ぎ方ではありましたが、なんとかバタフライを泳げるようになったわけです。
でもね、その事によって、スポーツが苦手、という子供の頃からのコンプレックスを、完全にとは言えないまでも、克服する事ができたのだと思います。
とにかく諦めずにやる事・・・・それしかないって感じですね。


ところで、競泳用の水着と言えば、今ではスパッツみたいなのが主流のようですが、オレが水泳を習っていた頃は、例外なくビキニ(いわゆる『競パン』)でした。
大人になってから水泳を習う場合、あの競泳用のビキニに抵抗を感じる人が結構多かったそうなのですが、その頃すでにオレは、下着はかなり小さいビキニを穿いていた(今でもそうですが)ので、全く抵抗がなかったし、そういう意味でも、すぐに馴染む事ができたんだと思います。

ちょうどその頃、西ドイツはミュンヒェンのスポーツ用品店 Schuster から取り寄せたカタログを見ていたら、ドイツのSpeedoのビキニが載っていて、それがスゴくカッコ良かったんですよ。
その頃のビキニって、横の部分の幅が5〜6cmくらいあったのだけれど、ドイツ製のそれは、その半分くらいしかなくて、その分、足が長く見えるんですね。
で、早速取り寄せて、プールではいつもそれを穿いていたのだけれど、結構インパクトがあったみたいで、練習終了後のサウナでいろいろ訊かれましたからね。
その後、80年代の終わりから90年代中頃までの日本の水泳界では、スウィマー達が、速さだけではなくビキニの小ささを競うような風潮がありましたが、オレはそれよりずっと前にやっていたわけです。

その後、抵抗を減らす、という事で、スパッツ型の水着や、全身水着まで出てきましたが・・・・確かに0.1秒を競うコンペティションスウィマーにとっては当然の選択なんでしょうけど・・・・なんか、水泳自体が面白くなくなりましたねぇ。
ソウルオリンピックの背泳のゴールドメダリスト、鈴木大地が、オリンピック前のインタヴューで、どんな水着で泳ぐのですか、と訊かれて、かなりちっちゃいヤツ、って答えていましたが、その言葉には、身体一つで戦う、という潔さがありました。
水着の面積が大きくなるとともに、そういうものが無くなってしまった事を残念に思うのはオレだけでしょうか。

以前は、ビキニじゃないと泳がせてもらえない競泳用のプールが結構ありましたが、今はスパッツやボックスタイプの水着が主流で、ビキニが少数派になっているのは残念な事だと思います。
欧米人に比べて足の短い日本人の場合、スパッツを穿くと余計に足が短く見える傾向にあるので、競技以外の時はビキニの方が見場がいいと思うんですけどねぇ。

人生を変えた出来事今でもヨーロッパでは、ビキニじゃないと入れないプールが多いのだそうですが、あるネット上の掲示板で見つけたこの画像はフランスのプールに掲示されているものだそうで、見ての通り、ビキニ以外は禁止ですね・・・・おそらくそれは、ヨーロッパにおけるヴァカンスの考え方によるものなのだろうと思います。

偉い人ほど長くヴァカンスを取る、と言われるヨーロッパでは、日焼けをしていないと尊敬されないという風潮があるようで・・・・イタリアの『経団連』の人達や歴代首相は、みんな見事に日焼けしています・・・・ヴァカンスに行ったら、他に何もしないで少しでも多く身体を陽にさらして遊ぼうとするわけですから、水着は身体を覆う面積が小さい方がいいというい考え方は当然であり、また「必然」なのでしょう。

オレは今でも、プールや海ではビキニしか穿かないし、できるだけ小さいサイズのものを穿く事にして(この歳になっても尻の割れ目が見えるビキニで泳いでいる事は以前にも書きましたが)、ビキニが似合わなくなったら終わりだ、って自分に言い聞かせながら、常に身体に緊張感を持たせているわけですが、まぁ、そういう『緊張感』のおかげで、体形が20代の頃からほとんど変わっていないのだと思うのですけどね。

男たるもの何かあった時には身体一つで飛び出して行く、くらいの気概は常に持っているべきだとオレは思っていますが、ダブダブのパンツを穿いてダラダラと歩いているようなヤツには絶対に無理だろうな。
まぁ、スポーツに目覚めたのは遅かったけれど、基本的な考え方は、完全に体育会系なんでしょうね。


オレの考え方の根本に not or all 的なところがある上、結構楽天的な性格もあってか、かなり極端な事を考え、実行してしまう人間ですから、バタフライを泳げるようになってスポーツ的コンプレックスがなくなった事で、それまでは「絶対に無理」と思っていた事でも、実際にできるんじゃないかと思い始めたんですよ。
で、ちょうどその頃から赤坂へ行く話が決まっていたので、東京へ行けばそれが本当にできるんじゃないかと思って、そのための準備として身体を作っておこう、なんて考えていましたからね。

オレには根本的に「ティームスポーツ」は向いていないと思います。
他人の所為で負けるのはイヤだし、自分の所為で負けたらもっとイヤですからね。
ラグビーの世界では、One for all, all for one. とよく言われるそうで、それが素晴らしい考え方である事は認めますが、面と向かって言われたら、オレは絶対逃げ出すと思いますね。
だから、オレは生涯ティームスポーツをやる事はないだろう、ってずっと思っていたのですが、そんなオレの考え方を根本から揺り動かしてしまうほどの魅力を持っていたのがフットボール(アメフト)なんですよ。

アメリカンフットボールというのは、いろんな意味において「特殊」なスポーツですから、いわゆる「草野球」というようなノリでやるのは絶対に無理で、身体作りから、その複雑なルールを覚える事まで、本気にならなければ無理、というか、安易にやれば危険だ、という事も良く分かっていました。
だから、たいしたスポーツ経験も無く、普通ならプレイヤー達が引退を考える年齢になって始めようという事が、もうムチャクチャな話なんですが、ちょうどその頃に読んだフットボール誌に、企業のフットボールティームの特集があり、オレと同じ年代でスポーツ経験の無いプレイヤーが意外といる事を知って、きっとオレにもできる、って勝手に思い込んだからなんですけどね。

東京へ行ってから、フットボール誌で見つけたプライヴェートティームに連絡を取り、練習に入れてもらったのですが、初めての練習で、入念なストレッチから準備体操を経て、ダッシュやステップ等の運動をした時は、ハードではあったけど、本当に面白かったですね。
自分の意識としては、それほどしんどいとは思わなかったのだけれど、身体の方は悲鳴を上げていたみたいで・・・・3回目くらいまでは、グラウンドの隅へ行って吐いたりした事もありましたからね。
でも、それ以降は問題なくついていけたのが、自分でも意外でした。

もっとも、フットボールをやるには些か細い体形のオレは、他の人達に比べて体重が軽かったから、身軽な分、走る事や敏捷性に関しては有利だったのだとは思いますが、全くのズブの素人が、自分よりずっと若いプレイヤー達についていけた事は、その後、体力的に大きな自信となりましたね・・・・って、案外自己満足だったりするんですが。
でも、後に後輩が、自分もやりたいと言ったので、練習に連れて行ったのですが、スポーツ経験もあり、オレより10歳近く若い後輩なのに、数回練習に行ったところで、身体が持ちません、と言ってギヴアップしてしまった事を考えると、オレの体力も結構捨てたもんじゃないな、って思いましたけどね。

以前に読んでいた『タッチダウン』誌に連載されていた、関学ファイターズ元監督の武田 健さんの話の中で、アメフトを始めたばかりの初心者に対し、まず手に入れるものはヘルメットだけでいいから、練習中はいつもヘルメットを被って慣れる事から始めるように、と書かれていた事を思い出し、すぐに渋谷のQBクラブへ行って、Pro AirⅡというヘルメットを買ってきたのですが、ヘルメットを被って練習するレヴェルまでいくのに、やはりそれなりの時間は必要でした。
そういえば、フットボールを始める一月ほど前に、社内のボウリング大会で優勝して賞金3万円を貰ったのですが、ちょうどその3万円がヘルメット購入資金になりました。

まぁ、そんなふうに毎週日曜日の練習に通っていたのですが、ある程度慣れたところで、ヘルメットとショルダーパッドを着けてブロッキングの練習が始まったら、完全に当たり負けしてしまうんですね。
敏捷性の面では有利だった体重の軽さが、ボディーコンタクトになると弱点になってしまい、同じ力でぶつかっても、体重の軽い方が押し返されてしまうわけです。
体重を増やさなければと思って、ウェイトゲインプロテイン、なんていうのをガバガバ飲んだりしましたが、体質のせいか全然体重が増えないんですよね。
この歳になると、そういう体質のおかげで、体形が変わっていない事をありがたく思いますが、当時はそういう体質を恨めしく思ったものでした。

10回くらい練習に行った頃だったか、いつも面倒を見てくれていた先輩が、少し離れたところからオレを見て「だいぶ様になってきたな、最初はどうなる事かと思ったけど」って言ったのですよ。
全身にプロテクターを着けたあのスタイルが最初から似合う人って、まずいないと思うけど、特にオレのような細い体形だと難しい・・・・だから、様になってきた、って言われた事は本当に嬉しかった。
多くの装備を身に着けるフットボールプレイヤーは、他のどのスポーツのプレイヤーよりも、ユニフォームが似合ってないとみっともないですからね。
もっとも、そのスタイルが様になっていれば上手い、とは言えません・・・・でも、仕事でもスポーツでも、上手い人は間違いなく制服やユニフォームが似合っている、というのは真理だと思いますね。

練習に通い始めて3ヶ月ほど経った時、練習試合をする事になって、江戸川の河川敷にある競技場へ行ったのですが、前夜の雨のせいで芝の状態が悪く、芝が傷むという理由で管理人から使用中止を言い渡されてしまい、仕方がないので、いつも練習している河川敷のグラウンドでやる事になったのです。
で、メンバーのクルマに分乗して近くまで行き、河川敷まで住宅地の中を歩いて行ったのですが、住宅地の道路を、ショルダーパッドを着けてヘルメットを抱えた男達が30人近く、クリートをカツカツと鳴らしながら歩いているのって、端から見れば異様な情景だっただろうと思いますが、その時オレは、絶対にやる事はないと思っていたティームスポーツを今自分がやっている、という事実を改めて不思議に思ったものです。

この日の試合では、勝ちがほぼ決まったフォース クウォーターの終わりの方で、まだナンバーのついていないジャージのまま、WR(ワイドレシーヴァー)として出場させてもらい、数回のプレイに参加しました。
明らかにビギナーだと分かるオレは全くマークされなかったので、誰にも邪魔されずQB(クウォーターバック)の指示通りのコースを走り、振り向くと、オレ以外のWRが完全にマークされていたので、QBがオレに向けてボールを投げようとしていたのですが、来る、と思って身構えた瞬間、QBがサックされて試合終了・・・・たったそれだけのプレイではあったけれど、なんか感動しましたね。
この頃になると、傷ついたり、腫れ上がったりした自分の腕を見て、充実感を感じていたりもしましたが。

さらにその後、横須賀の米軍基地でネイヴィーティームとの試合があり、基地内のフットボールフィールドに立った時の感動といったら・・・・ホント、世界が変わった、って気がしましたね。(その時の事は、ずっと以前のブログに書いたので、そちらを見て下さい。)

その後、夏休みに遊びに行ったスウェーデンで、足に怪我をした事と、店の定休日が変わった事が重なって、練習に行けなくなってしまい、アメフトから離れてしまったのですが、一番面白くなったところで止めなければならなかったせいもあってか、未だに心残りになってますね・・・・この歳になっても、またやりたいな、って思いますから。

元フットボーラーのお客さんと、アメフトの話で盛り上がる事がよくあります。
山ちゃんや、中京テレビ岐阜支局長のMさんと話をしていると、またアメフトやりてぇな、という言葉が出てくるんですが、バリバリの若い現役プレイヤーとは違うので、一部タックルを規制したり、アーリーホイッスルを採用した「シニアルール」でやれば、きっと今でも楽しめるでしょうね。

せっかく姉妹都市がデンヴァーなんだから、指導者に来てもらい、基礎からきっちり教わってティームを作り、アメフトで交流なんてのもいいと思いますね。
さらには、ブロンコスのプレイヤーを何人か呼んで、ビッグアリーナでクリニックとイヴェントでもやれば、日本中からフットボールプレイヤーやコアなフットボールファンが、間違いなく集まります。

日本中、どこの町へ行っても、というか、地方へ行くほど、野球とサッカーくらいしかスポーツの選択肢がないのは寂しいですよね。
だから、敢えて地方の小都市である高山でアメフトをやって、それを発信していったら、きっと面白いと思うし、他にはやっていない事ですから、町おこしとしても効果的だと思いますね。

ここまで書いてきて考えてみたら、アメフトをやっていた時の写真というものがない事に気がついた・・・・まぁ、みんなに付いて行くのに精一杯だった事もあって、写真を撮るヒマもなかったのだと思うのだけれど。
そういえば横須賀の基地へ行った時、ティーム全員で写真を撮った事があったけど、その写真を貰っていないんですよね。
アウェイ用のホワイトのジャージで撮ったのだけれど、その時オレはまだアウェイ用ジャージを持っていなくて、ひとりブルーのジャージで写っているはずなのだけど・・・・
(田中さん、もしその写真があったら、スキャニングして送って下さい。)


さて、フットボールから離れてしばらくした頃、店の後輩から、一緒にスクーバ ダイヴィングをやりませんか、って誘われたんですよ。
しばらく情報収集した上で考えて、やろうって決めた時、その後輩はもう別の事を始めていて、結局オレ一人でダイヴィングショップへ行き、伊豆大島でオープンウォーターの講習を受けました。

人生を変えた出来事伊豆大島の『パームビーチ』のプールサイドで、一緒に受講した仲間達、そしてインストラクターのみっちゃんと。












スクーバ ダイヴィングと言えば、いわゆる「レジャー」の代表みたいなイメージがあって、ダイヴィング誌のアンケートの結果を見ても、ダイヴィングの一番の目的は「魚を見る事」という答えが一番多いのですが、オレは「地形派」で、トンネルをくぐったり、洞窟へ入ったり、ドロップオフの上で浮遊したり、というのが好きでしたね。
だからオレは、なだらかな地形が多い東伊豆よりも、険しい西伊豆の海の方が好きです。
土肥の『白根』の、深度70mの海底から立ち上がるドロップオフもすごかったけど、雲見の『牛付岩』へ初めて行った時は、本当に感動しましたねぇ・・・・もう、岩の間を通り抜けながら泳いでいる間中、ワクワクし通しでしたから。
ただ、雲見って、伊豆半島の中で東京から一番遠いところなので、2回しか行けなかったのですけどね。

スクーバダイヴィングに関しても、オレはいつのまにかスポーツとしてのダイヴィングを目指していたのだと思います。
とにかくスキルアップのための講習を受け、ある意味で「危険度」の高い、より深いところ、より流れのあるポイントを求めて、海へ行っていましたからね。

新しいスキルを身につけるために、スペシャリティーコースを受講するのですが、その中でも『サーチ アンド リカヴァリー』、要するに「海の中でものを探し、引き上げる」という技術のコースを受けたいと思っていたのです。
ところが、そのコースを受けたいという人がいないんですよね・・・・かなりマニアックな技術ですから。
正月に大島へ行った時、まわりの人達を説得して何とか人数を揃え、そのコースを受講する事ができたのですが、(他の人はどう思ったかは分からないけど)オレはそれまでに受けた他のどのコースよりも面白いと思いましたね。
やっぱり、目指すものが他の人達とは、ちょっと違っていたんでしょうね。

結局は仕事が忙しくなって諦めたのだけれど、一時はプロを目指した事があって、その時はプールに通って長距離を泳ぐ練習をしたり、ダイヴィング用プールで、二人で泳ぎながら一つのレギュレイターで交互に呼吸したり、水底で装着している機材を全部外し、もう一度着け直したり・・・・そんな事を結構楽しんでやってましたから、完全に体育会系のノリですよね。

時間が無い人間ですから、沖縄や海外の海なんて考える事もなく、ひたすら伊豆の海で潜っていましたが、約3年で130本ほど潜りました。
一応、アマチュアの最高ランクであるMSD(マスター スクーバ ダイヴァー)の認定を受けましたが、ホント、よくあれだけ潜ったものだと、今になっても感心します。
ただ一つ、未だに残念に思っているのが、御蔵島でイルカと一緒に泳ぐ、というツアーに行き損ねた事・・・・仕事の都合とはいえ、あれだけは本当に行きたかったなぁ。

一度一緒のツアーに行って以来気が合って、いつも一緒に潜りに行っていた仲間達とは、高山へ帰って来てからも付き合いがつづいていますが、そういう仲間を作る事ができた事も、ありがたかったですね。
人生を変えた出来事
オレの100本記念のツアーをやってくれたのもその仲間達だったし、一緒にあちこちへ行ったし、ホント楽しかったですねぇ。
今でもハッキリと憶えているのは、そのメンバーで初めて土肥へ行った時の事。
人生を変えた出来事メンバーの1人が水鉄砲を持ってきたのだけれど、それがウケて、THE101のプールサイドでハシャギまくっていました。

この時34歳のオレ(左)と、37歳のパパ(右、グループのリーダー)が、無邪気に水鉄砲で遊んでいるこの写真・・・・「計71歳の戦い」ってタイトルをつけたらバカウケしましたが。


最後に海に潜ったのは、その仲間達と、一番仲の良かったインストラクターのみっちゃんの「1000本記念ツアー」に行った時でしたが、予定していた海が荒れたため、急遽変更して行った伊東の『白根』で、空前絶後とも言えるようなイナダの大群に囲まれて・・・・今でもあの時の感動はハッキリと思い出せますね。

その後は仕事に追われ、海へ行く時間がなかなか取れず、結局ダイヴィングからも離れてしまったのですが、今でも機会があれば、また海へ行きたいなぁ、って思っていますけどね。
(カネもヒマもないんですけど・・・・)


さて、ダイヴィングからも遠ざかり、しばらくは何もしない時期があったのですが、次に見えて来たのが自転車です。
街中での足として、原宿のオッシュマンズで Scott のMTBを買ってきたのですが、コレが実に具合がいいんですね。
赤坂のような坂の多いところでも全然苦にならないし、世田谷くらいまでなら、別にどうって事なく往復してましたからね。

人生を変えた出来事東京へ引っ越す時、大事にしていた本や雑誌を大量に処分したのですが、これだけは残しておこうと思ってとっておいたターザンのバックナンバーの中に、MTBの特集号があったので、そこに載っていた「都会を快適に走れるルートを探せ」という特集を参考に、夜仕事が終わってから、赤坂から六本木、麻布と廻るコースを走ってましたねぇ。


でも、そうして走っているうちに、何か物足りないものを感じるようになっていたのですよ。

で、ある日、昼の休憩時間に渋谷まで行った帰り、渋谷2丁目の交差点でサイクルコンピューターをリセットして走り出したのですが、赤坂ツインタワーの前に着いた時、きっかり8分を示していたんです。

まぁ、すべての信号が青だった、という事もあったのですが、かなりのアップダウンを繰り返す六本木通りを、これだけの時間で駆け抜けるのは、かなり速いんじゃないかな、って思ったわけです。

その時、結局のところオレはスピードを求めているんだ、って気がついたんですね。
考えてみれば、MTBのフロントギアは、アウターしか使った事がなかったし・・・・
そうなると、行き着くところ、ロードバイクしかないわけですよ。
と言っても、詳しい事は何も分からないので、『サイクルスポーツ』誌を買って来て読んだのですが、その付録に付いていた『ジーロ ディターリア』の特集冊子で、優勝したマルコ パンターニ Marco Pantani が乗っていた、メルカトーネ ウーノ仕様のビアンキが、すごくカッコよく見えたので、取扱店を調べて、輸入元でもあるサガミサイクルセンターへ行ってみたのです。

全くの初心者がいきなり専門店に行くのって、結構勇気がいるものですが、とにかく店に入って中を見回すと、天井から吊り下げて展示されているフレームの中に、そのビアンキがありました。
やっぱりカッコイイ・・・・でもね、全くのビギナーが、プロと全く同じ自転車に乗ってもいいのだろうか、って思ったんですよ。
明らかにオーヴァークオリティーなわけですからね。

で、店の人に、自分のそういう状況や、思っている事を話して、意見を聞いてみたわけです。
そんなオレの突拍子も無い質問に丁寧に応えてくれたその人は、社長の平林さんだったのですが、話を聞いているうちに、心の中では買う事に決まっていましたね。
翌週にもう一度来てサイズやパーツを決める事にして、その日は帰りましたが、それからの1週間はワクワクし通しでしたね。

こっちは全くの素人ですから、基本的な部分は店のお薦めパーツセットで組んでもらい、どうしても拘りたいところだけ、いくつかの選択肢の中から選ぶ、というやり方で、自分の思う通りのバイクになったと思います。
ついでに、メルカトーネ ウーノのジャージとパンツ、それにヴィットーリアのシューズも揃える事にしました。

後になって分かった事なんですが、オレがこのロードバイクを注文した日の夜、同じカラーリングのビアンキでトゥール ド フランスに出場していたパンターニが、マイヨジョーヌ(個人総合成績1位の選手に与えられる黄色のリーダージャージ)のヤン ウルリヒに8分以上の差をつけて超難関山岳ステージで優勝し、ウルリヒからマイヨジョーヌを奪取したのでした。
パンターニは、そのまま最後までマイヨジョーヌを守り通し、イタリア人としては33年ぶりの優勝と、ダブルトゥールを達成しましたが、偶然とはいえ、なんか嬉しかったですね。

偶然といえば、そのロードバイクに初めて乗った日が8月8日・・・・オレがスポーツに目覚めるきっかけになった、ターザンの取材日と同じ日だったんですよ。
なにか運命みたいなものを感じた、と言ったら大袈裟ですかね。

その数日後のお盆休みに、ロードバイクを抱えて高山へ帰ってきたのですが、古川の親戚へ行く用事ができたので、初の遠乗りとして、ロードバイクで行く事にしました。
少し下りになっているせいで、ちょっと踏んでやれば40km/hくらいはすぐに出ますから(逆に帰りは32〜3km/hくらいしか出ませんが)、極めて順調に走っていたんですが、国道から横道へ入って、回りを見回しながら走っていたら、前輪が何かに(おそらく小石だと思いますが)乗り上げたようなショックを感じて、しばらく走ると、前輪の空気が抜けている事が分かったんですよ・・・・初の遠乗りで、目的地直前にパンク、しかも雨が降り出して、なんて出来過ぎですね。
 
降り出した雨の中で初のパンク修理も済ませ(空気が漏れていて、後で2回ほどやり直しましたが)、親戚へ行って用を済ませた後、久しぶりに古川の町中を見てみようと、ゆっくり走っていたら、駅の近くで、なにか強い視線を感じたのですよ。
で、振り向いてみると、ある家の駐車場から、こっちをじっと見ている人がいて、その横にはドイチェテレコム(トゥール ド フランスでパンターニに負けて2位になったヤン ウルリヒの所属ティーム)のカラーリングのロードバイクがあって・・・・
いや、こんな飛騨の山の中でも、こういうマニアックな人がいるんだなぁ、って驚くとともに嬉しくなりましたね。

東京へ戻ってからは、街乗りはMTB、遠乗りはロードって使い分けていたのですが、そのうちだんだんロードバイクに乗る比率が多くなってきたのは、やはりオレがロード指向の人間だったんでしょうね。
そのうち、マンションの駐輪場からMTBが盗まれ、ロードバイクだけになったのですが、そうなるとどこへ行くにもロードバイクで、行った先でクリートの付いたシューズでペンギン歩きするのも全然苦になりませんでした。

タベルナ デル コッレオーニが閉店し、中目黒にトラットリーア ラ フェニーチェ(実はそれがラ フェニーチェの1号店です)をオープンした後、赤坂6丁目から目黒2丁目へ引っ越したので、目黒から恵比寿、代官山を廻るコースでよく走っていました。
その後、仕事場が目白に変わり、引っ越す事になった時、自転車通勤に適した距離を考えて、世田谷区弦巻3丁目に引っ越したのですが、目白まで片道14km、時間にして35〜40分というのは、距離的にちょうど良かったと思いますね。
雨の日以外は自転車通勤でしたから、その頃は月に700kmくらいは走っていたわけです。

2000年代に入った頃は「エコブーム」のはしりで、自転車通勤が話題にのぼり始めた頃でしたが、そんな事もあってか、いつも参加していた『クリティカルマス』に新聞や雑誌の記者が、取材に来た事がよくあり、新聞や雑誌に写真が載った事がよくありました。
確か2000年の3月だったと思うけど、ある英字新聞の一面のど真ん中に、すごく大きな写真でオレが走っているところが載った事がありましたが、残念な事に、その新聞を持っていないんですよ。
でも、東京を離れる半年ほど前に、読売新聞の取材を受けて、載った写真がコレ。
人生を変えた出来事
この写真を取るために、新宿南口の坂を20回くらい登りましたが、東京を離れる前のいい記念になったと思います。(ここに写っているのが、最初に手に入れたメルカトーネ ウーノ仕様のビアンキです)

高山へ帰ってきて、クルマの免許を取ったら、自転車に乗る機会が減ってしまった事は確かですね。
高山は盆地ですから、ある程度走ると絶対に登りがあるわけで、登りが苦手なオレとしては、辛いところがある事も事実なんですが、それでも、乗鞍青年の家まで登って行った事もあるし、黒雷鳥さんと一緒に乗鞍スカイラインを登って行った事もあるし・・・・まぁ、苦手だとは言いながらも、結構やっている事は確かなんですけどね。

でもね、こういう仕事をしていると、なかなかスポーツをする時間って作りにくい事は確かなんですが、特にウチみたいにオレが1人で店をやっている場合、本当に難しいですね。
まぁ、オレは楽器を演奏する事もスポーツの一種だと思ってますから、今はヴァイオリンとヴィオラを弾いてますけどね。
でもね、「演奏家」という人達は、間違いなく「アスリート」だと思いますね。
そういえば、料理好きで知られたピアニストの中村紘子さんが、包丁で手を切ったら危ない、と心配したファンに、包丁で手を切るような運動神経ではピアノは弾けませんのよ、と答えたそうですが、確かにその通りではありますね。

オレも今のところは一応、体形も体重も若い頃からほとんど変わっていないので、バランスはとれているのだと思いますが、定期的に運動をする事は必要でしょうね。
この歳になれば、いつ体形が崩れても不思議じゃないわけですからね。
だから、ビキニの話のところでも書いたけど、常に身体に「緊張感」を与えて、身体を引き締めるように心がけてはいますけどね。


フィットネスブームが始まった80年代の中頃は、男も女も例外なくタイトなウェアに身を包んでいましたねぇ。
根本的にタイトなものを身に着ける事を好むオレの場合、身体を動かす事に興味を持った理由の一つに「タイトなウェア」があった事は否めません。
ところが80年代の終わり頃、マイケル ジョーダンらのNBAプレイヤー達がダブダブの長いパンツでプレイし始めた頃から急速にルーズなウェアに変わっていき、日本にもすぐに伝わって来ましたが、日本人の場合、ダブダブの長いパンツを穿くと、欧米人に比べてただでさえ短い足がさらに短く見える上、すごくだらしなく見えるんですよね。
オレにしてみれば、すごく残念と言うか、イヤな流れだなぁ、って思ってましたねぇ。

考えてみると、ターザンの取材を受けた後にオレがやった4つのスポーツは、見事なまでにタイトなウェアを使うスポーツばかりなんですよね。
別にそれを意識してスポーツを選んだわけではないのだけれど、ダブダブのウェアを使うスポーツだったら、おそらくやっていなかったでしょうね。
どうしてオレがタイトなウェアを好むのか、って考えてみた事があるのですが、それは、その「タイトなフォルム」が、機能的な必然性からムダなものを削ぎ取って作られたものであり、そこから生まれる「緊張感」に惹かれるからなんだと思います。

競泳用の水着の場合、身体一つでコンマ何秒を競うわけですから、極限まで水の抵抗を減らさなければならないわけだし、ロードバイク用のジャージとパンツの場合は、当然、空気の抵抗が問題になりますが、ロードのレースでは、山岳ステージの下りで、曲がりくねった道を100km/hを超えるスピードで駆け下りる事を考えれば、風によるウェアのバタつきが非常に危険で、もしそれによってバランスを崩したら、命にかかわる事が分かるでしょう。
アメフトの場合は人間という、とてつもなく大きな抵抗・・・・自分を潰そうと掴み掛かってくる敵であったり、敵の動きを抑えて味方が作ってくれる狭い隙間をすり抜ける事だったり・・・・を避けなければならないわけですよ。

タイトなフォルムでなければ命に関わる、というと大袈裟な書き方だと思われるかもしれないけれど、それは事実だし、それ故、余計なものを削ぎ落としたタイトなフォルムからは、ギリギリまで突き詰めた、あるいは、命をかけた「緊張感」が滲み出ている・・・・オレは、そういうものに惹かれるんですね。
オレがイタリアの「古典的な料理」に拘るのも、長い年月の間に余計なものを削ぎ落とされ、必要最低限の素材の組み合わせで作られる飾り気のないシンプルな料理である事に惹かれるからなんですが、まったく同じ理由なんだと思いますね。

こんな事を書くと、やっている人に怒られるかもしれないけれど、バスケットボールやサッカーのルーズなユニフォームからは全然緊張感が感じられないし、チャラいと言うか、軟弱に見えてしまうんですよね。
もちろん、ルーズなスタイルである事にもそれなりの「美学」があるんでしょうけど、少なくともスポーツウェアとして使う事に関しては、オレには全く理解不能ですね。

渋谷にバスケットボールストリートができた時のニュースの画像で、BJリーグのプレイヤー達がユニフォームでパレードをやっているのを見て驚いたのだけれど・・・・
人生を変えた出来事このユルさ、というか緊張感の無さはなんなんでしょう・・・・昔、夏にオッチャン達がステテコにランニングシャツでうろうろしていたのと同じレヴェルじゃありませんか。

ダラッとしたシャツや、もうショーツとは呼べないほど長く、間違いなくまとわりつくであろうダブダブなパンツに、どういう必然性があるのか、オレにはまったく理解できません。

こう言っちゃ悪いけど、オレには「だらしない」としか思えないし、「戦う者」としての緊張感がまったく感じられないんですよね。

人生を変えた出来事下は、バレーボール ワールドカップでの日本ティームの画像なのだけれど、同じアメリカ生まれの室内競技で、同じようにスリーヴレスのユニフォームを使っていながら、受ける印象はまったく違いますね。

適度にタイトで、動きを妨げる要素が全くないスタイルからは、緊張感を感じるし、こうでなければならないと、オレは思います。

いつだったかターザンに載っていた、着こなしと仕草でベテランに見られる裏ワザ集という記事を読んだ事があったけど、野球に関しては、試合前や試合中の態度についてのみ書かれていたのに対し、サッカーでは大部分がウェアの着こなしについて書かれ、さらにバスケットボールでは、ウェアをファッションとして捉えてNBAプレイヤーになりきれ、というような事が書かれていて、この違いは何なのだろうと考えたのですが・・・・ファッションとして捉えてあの程度ならば、オレには「ファッション」は関係ないな、と思いましたけどね。

ただね、NBAのプレイヤー達が、試合後の会見の時にスーツを完璧に着こなして現れるのを見ると、ホントにカッコイイと思うのだけれど、そういう一面を持っているからこそ、ダブダブのユニフォームが成り立つのかもしれません。
日本のプレイヤー達も、真似するのならユルユルのところばかりではなく、きちんとするべきところも見習うべきだと、オレは思うのですけどね。

古い話ではありますが、ジェローム フリーマンが活躍していた1975年頃の松下電器スーパーカンガルーズのユニフォームは、本当にスタイリッシュだった。(残念ながら画像がみつからなかったのだけれど)
中学生の時、バスケットボール部員のクラスメイトが見せてくれた当時のバスパンは、ファスナーがついた前開きになっていて驚きましたが、そうなっていた理由はシルエットをきれいに見せるためだったと後に本で読んで知り、そこまで考えられていたのかと感心したものです。
そういう事を知っているだけに、そして当時のスタイリッシュなバスケットボールプレイヤー達を知っているだけに、ただダブダブなだけの現在のユニフォームって、本当にヘンだと思うのです。

もちろん、異論もあるでしょう。
オレがタイトなウェアを好むのと同様に、ルーズなウェアを好む人もいるわけで、服装文化史の研究家によると、世の中が平和になるとゆったりとした服装になり、世の中がキナ臭くなるとタイトな服装になるのだそうですから、「平和ボケ」とも言われる昨今においては、ルーズなものを好む人の方が多いのだろうし、それ故に、そもそもはのんびりと過ごすためのゆったりとしたウェアを、戦いの場にまで持ち込んだのかもしれません。
でもね、競技会に出場する者が全裸で戦った古代ギリシャやローマの時代から「アスリートは肉体を曝してナンボのもの」だったわけですよ。

現代においても、いわゆる「ご当地キャラ」を見れば、「ゆるキャラ」と呼ばれるものは呼ばれるものはデブでゆったりとしたコスチュームのものが多いけど、「何とか戦隊○○レンジャー」は全身タイツにヘルメットとプロテクターというスタイル(アメフトのノリ?)ですよね。
スーパーマンやスパイダーマンも全身タイツだし・・・・
「戦う者」にはタイトなスタイルが似合う・・・・それが感覚的に自然な事なのだと思います。

かつて、スノーボードのオリンピック代表になり、その後MTBに転向してMTB界を風靡したショーン パーマーは、あのピタピタのサイクルパンツを散々バカにして穿かなかったのだけれど、優勝がかかった世界選手権の時にサイクルパンツを穿いて出場した、というエピソードがありますが、結局のところ、極限まで追い詰めていくと、機能を優先するしかないわけですよ。
逆に言えば、機能より見た目を優先していられる状態というのは、やはりどこか軟弱と言うか、ギリギリまで追求した厳しさを感じられないんですよね。

このスポーツウェアの「機能」という面から見れば、日本のレヴェルは間違いなく世界一だと思います。
それぞれのスポーツ特有の動きを解析して、それに合ったデザインをする、というところまでは、世界中のどこのメイカーでもやっているけれど、ポジションに合わせて細かく合わせていく事までやったのは、日本のメイカーが最初だとと思います。

たとえば、ここ2〜3年の間に、NFLのラインマン達のジャージが、腋の下の空いたタイプに変わってきたけれど、5年前のアメフト世界選手権の時に、日本ティームでは既に使われていたのですよ。
これって、日本のアマチュアのために作られたものを、本場のプロ達が真似したという事なんでしょうけど、日本の技術ってそこまでスゴいわけですよ。
だから、闇雲に「本場」の真似をするのではなく、きちんと体形に合い、なおかつ機能的なウェアを世界に発信していく方がカッコイイと思うんですけどねぇ。

どんなスポーツであっても、常に戦いの場にいるアスリートこそ、タイトなウェアを身に着けて、肉体を誇示しながら戦うべきだと、オレは思いますね。


誰でも、歳を取って代謝量が落ちるとともに、体形は崩れていくわけですよ。
引き締まった身体を持っている若いうちは、どんなスタイルでいようとも問題はないのでしょうが、それ以降は、緊張感を持てるかどうかで、体形の変化は全く違ったものになると思うのです。
だから、著名なアスリートが、引退後に見るも無惨な体形になっているのを見ると、本当に「残念」という気がしますが、やはり、日頃の意識の持ち方に問題があるんじゃないでしょうかねぇ。

街中で、ジャージの上下を着た運動部員らしい中高校生達が、全く緊張感を感じさせずにダラダラと歩いているのを見ると、こいつらの20年後の身体はブヨブヨになっているんじゃないかって、人事ながら心配してますけど、ホント、大丈夫なんでしょうかねぇ。
中には、ジャージのパンツをずり下げて穿いているヤツもいるけれど、スポーツウェアをそういうふうに着るのは、だらしないのを通り越して「醜悪」としか言いようがないですね。(そういう格好をしているヤツらの中に、賢そうな顔や品の良い顔を見た事はありませんがね)
 
ジャージを着た姿から緊張感を感じさせる事ができなかったら、その人の体形は間違いなく崩れる・・・・と断言してもいい。
ジャージのように、どんな体形の人でも着てしまえるものを着て、緊張感がなかったら、体形が崩れていくのは当然の事です。
でもね、ジャージの上下を着て、きちんとスポーツウェアを着た時の「緊張感」を感じさせる事ができる人がどれだけいるか実際に調べてみたら、おそらく10人に1人もいないんじゃないでしょうかね。
ひとつ言わせてもらうなら、正月の新聞のチラシに載っていた「福袋」が、軒並みジャージの上下セットだったスポーツ用品店の売り方にも問題があると思うんですけどね・・・・まぁ、商売だから、売れればいいんでしょうけど。  

実を言うと、オレは高校の体育の授業の時以来、ジャージを着た事がないんですよ。
なぜかと言えば、絶望的なまでに似合わないから。
オレと同じような体形をしている甥の大地も同じ事を言っていますから、おそらくは体形的に似合わないのだと思いますが、ジャージを着て緊張感を感じさせる事ができるタイプでない事は確かですね。

かく言うオレは、自分が「アスリート」だなんて間違っても言えませんが、前にも書いたように、常に緊張感を維持できるよう、いつもタイトなスタイルでいるように心がけているわけです。
でもオレの場合、頭がデカイ上にO脚という、どう見ても見た目がいいとは言えない体形なので、タイトなウェアを身に着けるのには、いささか問題があるんですよ。
で、試行錯誤の結果、考えついたのが、パーカとフットボールパンツの組み合わせなんですが、トップはフードのついたパーカにする事で頭の大きさを目立たないようにし、ボトムは下手にタイツとかレギンズなんか穿くとO脚が目立ってしまうので、膝下でロングソックスと切替えになるフットボールパンツにする事で、それを目立ちにくくしているわけです。

その組み合わせを普段着にする事で得る「緊張感」はすごいものですよ。
あの超タイトなパンツは体形がモロに出てしまうので、あれを穿いてダラダラしていたら、本当にみっともなく見えてしまいますから、スーパーでレジ待ちしている時でも、図書館で本を探している時でも、常に意識して尻を引き締め、背筋を伸ばしている必要があるわけです。(それに慣れてしまったら、普通の格好をしていても、無意識に尻を引き締めている事に気がついて笑ってしまいますけど)
でも、オレは常に緊張感を持っている方がリラックスできるタイプらしく、その方が落着きますから、全然苦にならないどころか、一番ラクなスタイルですけどね。

そういうスタイルをしている春から秋にかけては、体形が締まったままですから、すごく効果がある事は間違いないのですが、この歳になって代謝量が少し落ちた今、寒さでそのスタイルができない冬の間に体形が少し丸みを帯びてくるという事実・・・・それが問題なんですよね。
夏にプールで小さいビキニを穿くために、春から夏の間に、その丸みを帯びた体形を締める努力をする、というのも身体のためにはいい事だと思いますけど。

まぁね、オレのそういうスタイルを、中にはカッコイイと言ってくれる人もいるけれど、多くの人には突拍子もないものに見えるだろうし、笑う人も多いと思いますが・・・・実際、大笑いされた事もあるし・・・・オレは全く気にしません。
そもそも、自分の生き方や趣味、言い換えれば「自分のスタイル」を他人に理解してもらう必要なんて全くないわけで、理解されたいのだったら、流行を追って、他人と同じ事をしていればいいんですから。
もっとも、「流行を追う」というのは、自分がどう生きるかをしっかりと考える事ができない人、あるいは、考える事を放棄してしまった人がする事だと、オレは思ってますけどね。

そういう意味では、無闇に流行を追わず、あくまでも自分のスタイルを押し通す、ヨーロッパの人達の生き方って、いいと思います。
「他人は他人、自分は自分」というスタンスを崩さず、その上でエレガンスというものを大切にする生き方・・・・いいですねぇ。

「エレガンス」という言葉に対して、日本では「優雅さ、上品さ」というスタティックなイメージを持たれる事が普通だと思うけど、ヨーロッパの人達の持つエレガンスの概念は、もっとダイナミックなもので、フットワークの軽さとでも言うか、ある種の好戦的な要素が含まれているようです。
昼の第一礼装である「モーニングコート」が、本来は朝の乗馬の時に着るための服・・・・要するにスポーツウェアであったという意外な事実も、そう考えれば納得できます。
戦の朝、兜に香を焚き込めてから出かけた戦国の武将がいたそうですが、洋の東西を問わず、戦いの場にエレガンスを見出すことができるのは、偶然ではないのかもしれません。

だから、貴族階級の人達や、大企業の会長や社長なんかがレースに参加して、自分でレースカーを運転するのは普通の事だし、イタリアの首相がロードバイクで遠乗りし、首相公邸の門の前で帰ってくるのを待ち構えていたマスコミに取り囲まれて、サイクルジャージ姿でインタヴューを受けるなんて事もありますが、そういうふうに動けるからこそ尊敬されるわけですよ。
(どこかの国のお偉いさんや政治家みたいに、運転手付きのクルマの後ろでふんぞり返っているようでは、間違っても尊敬されないし、第一カッコワルイですよね。)

オレはそういうダイナミックな「エレガンス」に憧れるし、そういうエレガンスを目指しながら歳を重ねていけたらいいと思いますね。
どう頑張ったところで、歳を取ってジイさんになる事は避けられないけれど、同じ歳を取るならみずみずしく歳を取りたいし、「渋い」なんて言葉が似合わない人間だから、最後までピカピカでいたいと思うのだけれど、ジジイになってもタイトなウェアが似合う身体でいられたら幸せだと思います。

そういえば、いつだったか、ウチの大切なお客さんで、祖父の家のお向かいさんでもある吉村広己君と話していた時、たまたま祖父の話が出たのですが、その時に広己君が何気なく「八千久のじいちゃんは、着物を着たところしか見た事がない。」と言ったのを聞いて、ふと気がついた事がありました。

料理人だった祖父は、昔気質の職人らしく、いつも「半纏に股引に紺の足袋」という格好をしていましたが、晩年は難病を患い、第一線を退いて、日がな一日、奥の座敷の籐の椅子に座って外の庭を眺めるようになっても、ずーっと同じ格好をしていました。
と、そんな事を思い出した時、オレの「パーカにフットボールパンツにロングソックス」というスタイルと、祖父の「半纏に股引に紺の足袋」というスタイルの間に、何か共通したものがある事に気がついたのですが、それは無意識のうちに祖父のスタイルをオレ流にアレンジしたものなんじゃないか、って思ったわけですよ。

子供の頃のオレにとって祖父は近寄りがたい人のように思えて、あまり話をする事もないうちに亡くなってしまった事を、今はすごく残念に思っているのですが、その「職人の血」は、木工職人だった親父を経て、間違いなく受け継いでいると思っています。
こうして考えてみると、祖父と同じ料理人の道を選んだオレは、無意識のうちに祖父の生き方を辿っているのかもしれません。
親父も祖父も、死ぬ直前まで「職人意識」を持ち続けていたと思うのですが、オレも最後までそういう意識を持って生きたいと思うし、最後まで自分のスタイルを変える事なく生きれたらいいと思いますね。

まぁね、この先オレは何年生きられるか分かりませんが・・・・男性の平均寿命まで生きるとして30年ほどですが・・・・結婚も諦めたわけじゃないし、子供が欲しいとも思うけど、このまま独りで生きていくのかもしれません。
でもね、どういう人生であろうと、元気に明るく生きていきたいですね。
「こち亀」に出てくる両さんのじいさん・・・・あんなのが理想なんですけどね。


さて、オレのスポーツ体験から、スポーツウェア論、自分のスタイル論と、思った事を思いのままに書いてきましたが、こんな事を書く事ができるのも、25年前にターザンと出会ったおかげであり、こんな楽しい人生を過ごして来れたきっかけを作ってくれた事に、改めて感謝したいと思います。

でも、ここまで書いた以上、体形を崩す事は許されませんね。
ここしばらくターザンとは疎遠になっていたけれど、この辺ででもう一度自分の身体を見直すために、また読んでみたいと思っているところですが、これから50代、60代、さらにその先で元気でうるさいジジイになれるように、今からやっておく事は、まだまだたくさんありそうです。
まぁ、今できる事からやっていきましょうかね。


では、また。
Ciao. Arrivederci!!

スポンサーリンク
同じカテゴリー(スポーツ)の記事画像
いろいろあって  2017年初夏~秋 後編
いろいろあって  2017年初夏~秋 前編
いろいろあって 久しぶり編 その2
いろいろあって 久しぶり編 その1
ホント or ウソ
私的エコ論? Rollerbradingの話!!(その1)
同じカテゴリー(スポーツ)の記事
 いろいろあって  2017年初夏~秋 後編 (2017-12-09 07:56)
 いろいろあって  2017年初夏~秋 前編 (2017-10-03 07:50)
 いろいろあって 久しぶり編 その2 (2017-04-11 07:45)
 いろいろあって 久しぶり編 その1 (2017-02-06 23:35)
 ホント or ウソ (2011-06-23 17:50)
 私的エコ論? Rollerbradingの話!!(その1) (2008-08-22 17:05)

Posted by spock at 01:20│Comments(11)スポーツ
この記事へのコメント
いや~、更新楽しみにしておりました、と同時に軽い短編集を読み終えたかのような達成感と爽快感を覚えます。今まで直接お聞きしたことのあるエピソードもあれば、ブックレットにちょっと触れてある内容で、以前から気になっていた内容など、写真付きでガッツリオープンにして頂いた今回の記事は、私的にはある意味「永久保存版」ですね(笑)
さて、中にも触れてあったのですが、フェニーチェに訪れてドアを開けいわゆる「非日常」に入ると、まず真っ先にspockさんからある種のオーラというか、良い意味で威圧感に近い雰囲気を感じますが、恐らくそれが白衣に身を包んでイタリア料理に向かう際の「緊張感」なのでしょうか?そして、spockさんから共される一品一品は正に圧巻なのは言うまでもないことです。少し目線が逸れますが、体型含めて緊張感を持続しながら生活することはある程度必要な事だと私も考えています。長くてだらっとした長髪に体型を隠すブカブカの服のシェフより、真っ白い白衣にピシッと身を包み髪もきれいにまとめてスラッと凛としたspockさんのようなシェフが出す料理の方が食べたいと思うし、思わせますものね。だらしない印象は料理を不味くさせると思います。単純に腕だけではなくて、そういう気概というか、姿勢っ料理のみならず何事にも共通して言える大切な事だなと改めて共感しました。
ということで、めちゃくちゃ長いコメントになりましたがとにかく今月どこかで必ずディナーでお邪魔致します。
Posted by RED-WOODSRED-WOODS at 2012年02月07日 05:35
いやぁ、読み応えありましたが、面白い。特にウェアの項は同感です。アスリートの鍛えた身体はビジュアル的にもスポーツ観戦のポイントだと思っているので(例えそれが相撲でも!)、ルーズなウェアはいただけない。なのでワタクシバスケットは見ません。
Posted by ネコ先生 at 2012年02月07日 12:32
店主さんお誕生日おめでとうございます(^^

やっとで念願のフェニーチェデビューができました

とってもとってもおいしかったです(^^ごちそうさまでした(^^
Posted by niko at 2012年02月07日 19:37
RED-WOODS さん
超長編を読んで頂き、ありがとうございます。

いつ頃からか、TVや本にやたらと「癒し」という言葉が出てくるようになりましたが、どう見ても「癒し」が必要とは思えない、緊張感の欠片も無いような人に限って「癒される」って言いたがるように思えます。(最近よく聞く「ゆるキャラ」も同じ事だと思いますが)
もともと日本人て「お気楽能天気民族」だと思うのですが、それにしても今の日本には、緊張感が足りなさ過ぎるんじゃないのでしょうかね。

オレ自身の理想を言うなら、緊張感を持ちながらリラックスする、というのが最高の状態だと思うし、そういう状態で食事をしてもらえたら最高なんですが、こういう考え方は、ゆるいものを求める今の風潮の中では、なかなか理解してもらえないんでしょうね。(だからいつもヒマなんですが)
そういう意味で、ウチみたいな店は貴重な存在なんだろうな、って自負しているのですが、共感し理解して下さるお客さんがおられる限り、このやり方を変えずに続けていきたいと思います。

これからも、よろしくお願いしますね。
では、ご来店をお待ちしております。
Posted by spockspock at 2012年02月07日 21:49
ネコ先生
ありがとうございます。

やっぱり先生もそう思われますか。
「アスリートは肉体を曝してナンボのもの」ですよね。
Posted by spock at 2012年02月08日 08:01
niko さん
ありがとうございます。

料理を気に入って頂けたようで、本当にうれしく思います。
ぜひ、また来て下さいね。
お待ちしております。
Posted by spock at 2012年02月08日 08:14
お誕生日おめでとうございます。
長編のブログ読みました。
しかし、どうしてもアメフト内容箇所に目がいきます^^
2007年2月7日のブログも読み。
そうだ!そうだ!と同感するところ多々ありました。
さて、
ようやく第46回SBを見終える事がでましたよ。
予想通りの展開だったことに驚き。

来シーズン、ティーボウ&WR陣のタイミングパスがキャンプ時に確立されれば強いオフェンスになるのではないでしょうか?!
ディフェンスは、DCが変わるのでなんとも言えませんが、
プロボウルに選出された選手が5人もいるブロンコスですから
期待しちゃいますね。

今シーズンは、ティーボウのお蔭で終盤楽しませていただいた気がします。

それにしても15番のジャージ
羨ましい~ 来年はあれを着てハワイへ行かれたら(笑)
ティーボウもプロボウル選出されると思うので^^

また話しに伺います。
では♪
Posted by takechi at 2012年02月09日 20:16
takechi さん
ありがとうございます。
そして、誕生日おめでとう・・・・類は何とかを呼ぶ、というのか、オレの周りには、水瓶座生まれのB型が結構多いですね。(笑)

ホント、今シーズンのティーボウは良くやってくれたと思いますが、その分来シーズンは期待が高まるだけに、難しいところも出てくるんでしょうね。
でも、今のブロンコスは、何か得体の知れない潜在的な能力を持っているように思えます。
上手く噛み合えば上位を狙えるでしょうけど、ティーボウの出来にムラが多いのが、ちょっと恐いところですね。

ティーボウのジャージ、本当はアウェイ用のホワイトのが欲しかったんだけれど(その方が着こなしやすいので)、もうあの値段では手に入らないでしょうね。(時々、ヤフオクは見ているんだけど・・・・)
あれを着て、ティーボウイングでもやってみようかな。

また、ゆっくりと話しましょう。
では、また。
Posted by spockspock at 2012年02月09日 23:23
西野さん
ご無沙汰しております。約30年前ですから、おそらく覚えていらっしゃらないと思いますが、チェロキーでご一緒させて頂いた増本と申します。当時、赤坂のお店にも2度ほどおじゃまして、その美味しさに感動した記憶がいまだに鮮明です。いつかまた西野さんのイタリアンを食べたいと思いチェックしていたところ、こちらのブログを見つけました。大変な時だと思いますが、頑張ってください。いつか、ちかい将来、うかがえる日を楽しみにしております。
追伸: 手元にあった横須賀の写真をスキャンしてメッセンジャーで送ります。
Posted by 増本 at 2020年07月16日 12:55
増本さん
コメント、ありがとうございます。

Facebook の友達リクエストをいただいて、画像やお名前から、どこかで会った事があるんだけど・・・・と考えていたのですが、コメントを見て思い出しました。

28年も前の事ですよね。
本当に、あの時は楽しかった。

仕事の都合で、チェロキーには短い期間しか行けませんでしたが、大切な思い出になっていますし、田中さん、板倉さん、上原さんとは、Facebook で友達になっています。

ぜひ店に来てください。
大切な友人として、お迎えします。

横須賀での写真、ありがとうございます。
あの頃のことが、なつかしく思い出されますね。

では、また。
Posted by spock at 2020年07月16日 22:29
FBのご承認ありがとうございました。

西野さんが辞められてすぐ後、私も仕事の都合で足が遠退き、フェードアウトするように辞めてしまいました。チームには不義理をしたと後悔しています。

私も短い期間でしたが、生涯の楽しい思い出になりました。練習試合でグランドに立った時の緊張や興奮は、今思い出してもドキドキします。今度、お店にうかがったときにゆっくりお話しできると嬉しく思います。

では、また。お会いできる日を楽しみにしております。
Posted by 増本 at 2020年07月17日 08:19
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
人生を変えた出来事
    コメント(11)