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2008年03月27日
ristoranteの矜持
Ciao. spockです。
確定申告も無事・・・・いや、途中でパソコンがおちてデータの入れ直しをしたから、無事ではないか・・・・終り、久しぶりにブログの更新です。
さて、前回のブログにも書きましたが、店の事を詳しく書いて欲しい、というメールを頂いたので、LA FENICEについて書く事にします。
ただ、メールを下さった方は、店の営業時間とが定休日といった、案内的なものを求められているのではないかと思うんですが、そういう事は、近々、サイドバーに表示しようと思っています。
じゃあ今回は何を書くのか、というと、ウチの基本姿勢のことです。
いわゆる『八方美人』というのが生理的に嫌いな事もあって、誰にでも好かれる店にしようなんてハナから思っていないのですが、ワザと取っ付きにくい店ぶっている部分がある事も確かなんですよね。
でも、それには理由があるんですよ。
その事について書いてみます。
まぁ、例によって長くなりそうなので、何回かに分けて書くつもりですが・・・・
まず、ウチの全景です。

この画像はかなり前のものなので、前に並べてあるゼラニウムが貧弱に見えますが、今はゼラニウムがかなり増えたので、春から秋にかけては、白い壁にゼラニウムの赤い花と緑の葉が良く映えます。
何と言っても特徴的なのは、弧を描く壁と、それに続くアプローチでしょう。
この壁の工事の時、作業をしてくれた人が苦笑しながら「究極のムダだな」って言っていましたが、この壁は何があっても外せないと思っていました。
普通、飲食店の入口は、入りやすいように作られているものですが、奥まったところに全く中の見えないドアがあるウチのエントランスは、おそらく初めて来られた方には、入るのに勇気がいる事だろうと思います。
でもこれは、敢えてこういう構造にしてあるのですよ。
その理由は・・・・次の画像を見てもらいましょう。
ウチのカンバンです。

これは、オレが作ったもので、自分で出来る事は自分でやるというのがオレのモットーです・・・・と言うと聞こえはいいけど、実はプロに作ってもらうカネが無かっただけなんですけどね。
このロゴも自分で作ったもので・・・・マックのフォントの中から合いそうなものを選び、実際にプリントしてみて決めたので、2時間くらいしかかかりませんでしたが・・・・この素っ気なさが、出来立てをすぐに食べてもらうために料理に余計な飾り付けは一切しない、というウチの行き方に良く合っていると思っています。
このカンバンのイタリア語で書いてあるところ La cucina italiana ristorante LA FENICE は、ラ クチーナ イタリアーナ リストランテ ラ フェニーチェ と読みます。
(これを、ラックチーナイタリヤーナ リストランテ ラッフェニーチェ と早口で読むと、よりイタリア語の発音に近くなります)
ウチは、ristorante(リストランテ)を名乗っています。
このristoranteを辞書で引くと、レストランと出ていますが、これを一般的な意味で使われる『レストラン』だと思ったら大間違いなんですよ。
イタリアには、飲食店を現す名称がいくつもあります。
例えば、trattoria(トラットリーア)、osteria(オステリーア)、taverna(タヴェルナ)などですが、その名称が店の格式を表すと同時に、どういう場合に使う店かという事も示しているのですよ。
こういう事は、イタリアの文化であり、また伝統だと思いますが、それらの中で一番格式が高いのがristoranteです。
毎日通えるような人は別ですが、ristoranteは特別な時に行くところ・・・・言い替えれば、非日常的時間を楽しむために行くのがristoranteなんですよ。
フラッと立ち寄るのならtrattoriaへ行けばいいし、何かの記念日とか特別な人と食事をする時にはristoranteへ予約を入れる、そういう使い分けがキチンとされているわけです。
料理のオーダーにしても、trattoriaでは思いつきで好きなものをオーダーすればいいけれど、ristoranteでは、アンティパスト(前菜)、プリーモピアット(パスタやスープ、リゾットなど)、セコンドピアット(肉や魚など)、ドルチェ(デザート)という順番に、コースの形式でオーダーするのが基本・・・・と言うか、それが不文律なんです。
もしristoranteでパスタを一品だけ頼んだら、間違いなく白い目で見られます。
店の入口に執事のようなオジさんが立っていて、客の服装を見て入店を断るristoranteもありますが、まぁ、歴史を誇る超高級店という事ですね。
もっとも、そういう店に、短パンにスニーカーで入ったら、絶対に浮いてしまう事は想像がつきますけど・・・・
LA FENICEを始めるにあたって、ristoranteを名乗る以上は絶対外せない、と思う事が2つありました。
その2つのうちの1つが『非日常的空間である事』なんです。
だから店の構造も、お客さんが日常的時間を持ったまま入って来るものであってはいけないと、オレは考えました。
そういう理由で、ウチのエントランスは、日常から非日常へ気持ちを切り換えるためのアプローチになっているわけです。

敢えて入りにくい入口を作る・・・・ristoranteを名乗る店としての矜持だ、と言ったら大袈裟でしょうか。
ただ、ランチの時間(11:30~14:00)は、気軽に入って欲しいという思いで、この画像のように、外側のドアを開け放してあります。
さて、上に書いた「ristoranteを名乗る以上は絶対外せないと思う事』のもう1つは、『コース料理だけを提供するために予約制にする事』なのですが、その事については、次回、書く事にします。
では、また。
Ciao. Arrivederci!!
確定申告も無事・・・・いや、途中でパソコンがおちてデータの入れ直しをしたから、無事ではないか・・・・終り、久しぶりにブログの更新です。
さて、前回のブログにも書きましたが、店の事を詳しく書いて欲しい、というメールを頂いたので、LA FENICEについて書く事にします。
ただ、メールを下さった方は、店の営業時間とが定休日といった、案内的なものを求められているのではないかと思うんですが、そういう事は、近々、サイドバーに表示しようと思っています。
じゃあ今回は何を書くのか、というと、ウチの基本姿勢のことです。
いわゆる『八方美人』というのが生理的に嫌いな事もあって、誰にでも好かれる店にしようなんてハナから思っていないのですが、ワザと取っ付きにくい店ぶっている部分がある事も確かなんですよね。
でも、それには理由があるんですよ。
その事について書いてみます。
まぁ、例によって長くなりそうなので、何回かに分けて書くつもりですが・・・・
まず、ウチの全景です。
この画像はかなり前のものなので、前に並べてあるゼラニウムが貧弱に見えますが、今はゼラニウムがかなり増えたので、春から秋にかけては、白い壁にゼラニウムの赤い花と緑の葉が良く映えます。
何と言っても特徴的なのは、弧を描く壁と、それに続くアプローチでしょう。
この壁の工事の時、作業をしてくれた人が苦笑しながら「究極のムダだな」って言っていましたが、この壁は何があっても外せないと思っていました。
普通、飲食店の入口は、入りやすいように作られているものですが、奥まったところに全く中の見えないドアがあるウチのエントランスは、おそらく初めて来られた方には、入るのに勇気がいる事だろうと思います。
でもこれは、敢えてこういう構造にしてあるのですよ。
その理由は・・・・次の画像を見てもらいましょう。
ウチのカンバンです。
これは、オレが作ったもので、自分で出来る事は自分でやるというのがオレのモットーです・・・・と言うと聞こえはいいけど、実はプロに作ってもらうカネが無かっただけなんですけどね。
このロゴも自分で作ったもので・・・・マックのフォントの中から合いそうなものを選び、実際にプリントしてみて決めたので、2時間くらいしかかかりませんでしたが・・・・この素っ気なさが、出来立てをすぐに食べてもらうために料理に余計な飾り付けは一切しない、というウチの行き方に良く合っていると思っています。
このカンバンのイタリア語で書いてあるところ La cucina italiana ristorante LA FENICE は、ラ クチーナ イタリアーナ リストランテ ラ フェニーチェ と読みます。
(これを、ラックチーナイタリヤーナ リストランテ ラッフェニーチェ と早口で読むと、よりイタリア語の発音に近くなります)
ウチは、ristorante(リストランテ)を名乗っています。
このristoranteを辞書で引くと、レストランと出ていますが、これを一般的な意味で使われる『レストラン』だと思ったら大間違いなんですよ。
イタリアには、飲食店を現す名称がいくつもあります。
例えば、trattoria(トラットリーア)、osteria(オステリーア)、taverna(タヴェルナ)などですが、その名称が店の格式を表すと同時に、どういう場合に使う店かという事も示しているのですよ。
こういう事は、イタリアの文化であり、また伝統だと思いますが、それらの中で一番格式が高いのがristoranteです。
毎日通えるような人は別ですが、ristoranteは特別な時に行くところ・・・・言い替えれば、非日常的時間を楽しむために行くのがristoranteなんですよ。
フラッと立ち寄るのならtrattoriaへ行けばいいし、何かの記念日とか特別な人と食事をする時にはristoranteへ予約を入れる、そういう使い分けがキチンとされているわけです。
料理のオーダーにしても、trattoriaでは思いつきで好きなものをオーダーすればいいけれど、ristoranteでは、アンティパスト(前菜)、プリーモピアット(パスタやスープ、リゾットなど)、セコンドピアット(肉や魚など)、ドルチェ(デザート)という順番に、コースの形式でオーダーするのが基本・・・・と言うか、それが不文律なんです。
もしristoranteでパスタを一品だけ頼んだら、間違いなく白い目で見られます。
店の入口に執事のようなオジさんが立っていて、客の服装を見て入店を断るristoranteもありますが、まぁ、歴史を誇る超高級店という事ですね。
もっとも、そういう店に、短パンにスニーカーで入ったら、絶対に浮いてしまう事は想像がつきますけど・・・・
LA FENICEを始めるにあたって、ristoranteを名乗る以上は絶対外せない、と思う事が2つありました。
その2つのうちの1つが『非日常的空間である事』なんです。
だから店の構造も、お客さんが日常的時間を持ったまま入って来るものであってはいけないと、オレは考えました。
そういう理由で、ウチのエントランスは、日常から非日常へ気持ちを切り換えるためのアプローチになっているわけです。
敢えて入りにくい入口を作る・・・・ristoranteを名乗る店としての矜持だ、と言ったら大袈裟でしょうか。
ただ、ランチの時間(11:30~14:00)は、気軽に入って欲しいという思いで、この画像のように、外側のドアを開け放してあります。
さて、上に書いた「ristoranteを名乗る以上は絶対外せないと思う事』のもう1つは、『コース料理だけを提供するために予約制にする事』なのですが、その事については、次回、書く事にします。
では、また。
Ciao. Arrivederci!!
Posted by spock at
20:56
│Comments(8)
2008年03月03日
総和保育園
Ciao. spockです。
ここ数日、やっと春が近づいてきた事が感じられる陽気になってきましたね。
この2月は、おかげ様で忙しく、定休日も半分は営業したのですが、月末の支払が終って店の通帳を見ると・・・・残高が全然増えてない・・・・
しばらく落ち込みましたが、すぐに立ち直れる・・・というか、嫌な事はすぐに忘れる性格のおかげで、3月も前向きに頑張れそうです。
本題に入る前にひとつ・・・・
先日、ひだっちブログ経由でメールが来ました。
匿名のメールなのですが『お願い』という題で「もう少し店の事を詳しく書いていただけると、遠方の友達にも紹介できるので、ぜひ書いてください。」という内容のものです。
で、返事を出したのですが、戻って来てしまったのですよ。
もし、このメールを出された方が読んでおられたら、店の何について・・・というか、どのような事について詳しく書けばいいのかお報せ下さい。
さて、昨日は、花・花さんのブログにも書かれていた『総和保育園感謝デー』に行って来ました。

ここへ来るのは、もう三十数年ぶりです。
妹もここへ通っていたので、小学5年の頃、よく迎えに来たのですよ。
近所の、同じ学年で、やはり妹と同じ歳の弟を持つO君と一緒によく来たものです。
O君と二人で裏庭へまわり、窓から中を覗いた事を憶えています。
細かいところは少し変わっていますが、建物自体は全然変わっていないですね。

玄関を入ってすぐ左は職員室でしたが、今は図書室みたいになっていました。

玄関の右が遊戯室・・・オレたちは『広間』と呼んでいました。
そのせいか『東京五輪音頭』を聴いた時、『あの日ローマで、え〜眺めた〜月を〜』という出だしを『あの広〜間で』だと思って、月の見える広間ってどんな広間だろう、って真剣に考えた事を憶えています。
今見ると、こんなに狭かったのかな、って思いますけど、あの頃は充分広いと思っていたのですよね。
壁にかけられている『金太郎』の絵も懐かしい!!

夏になると、全員が小さな布団を並べて、ここで昼寝をしたんですよ。
金太郎の絵のすぐそば、一番玄関よりの窓の上の方に、スピーカーの台座が残っていました。
昔はここに、ラッパ型のスピーカーがついていて、外にも内にも向けられるようになっていたのですよ。
先生が窓によじ登って、外で使う時と広間で使う時、向きを変えていましたね。
玄関奥の廊下を左へ行くと、突き当たりがトイレ。
昔は手前半分が男児用で、単に溝があるだけでしたが、今はすべて個室になっていますね。

トイレの右手前が倉庫で、その手前を右に曲がると、右側に給食室と手洗い場、左側に教室が並んでいます。

今はクラスの名前も変わっていますが、昔は手前から、年長組の『雪組』と『月組』、年中組の『星組』でした。
その突き当たりが、今回はスライドを見せる部屋になっていましたが、昔は突き当たりに小さな畳敷きの和室があり、その手前に左に折れる廊下があって、その廊下の右側(和室の隣)が年小組の『花組』、突き当たりが年中組の『桃組』、でした。
それぞれの組の色の、桜の花の形の名札を、スモックの胸につけていました。
オレは2年保育でしたから、1年目が桃組、2年目は雪組でした。
今回は、その桃組の教室を見る事が出来ませんでしたが、裏庭に飛び出した形の桃組の教室が、一番環境的に良かったと思いますね。
昔、星組だった部屋で、総和保育園の歴史とも言える、アルバムが公開されていました。
オレが通っていた年代のアルバムを見ると、その当時のオレが見つかりました。
カメラを向けられると、必ず他の子とは違った顔やポーズをしていました(要するに、その頃から目立ちたがりだったんでしょう)から、こういう時には見つけるのが簡単です。
雪組の教室を覗いてみました。

中へ入ると、こんなに狭かったかな、という感じがしましたが、それよりも、椅子の小さい事!!

当時は木製の椅子でしたが、今のオレなら、2つ積み重ねてちょうどいい位でしょうか。
雪組の向かいが給食室で、その隣に手洗い場があります。

今はステンレスの流しで、湯沸器もついていますが、昔はタイル張りの流しで、もっと狭かったような気がします。
冬、風邪が流行ると、みんながここに並んで、家から持って来た水筒の水でうがいをしたものです。
オレが通っていたとき、こんな物ができたのですよ。

ちょうど『オバQ』のような形の遊具で、『プレイスカレプチャー』というのが正式な名前だと、当時新聞で読んだ母が教えてくれました。
この外側の球面を、鎖を使ってよじ登れるようになっていましたが、今だったら、危険だということで許可されないでしょうね。
オレはこのプレイスカレプチャーが大好きで、休み時間になると真っ先に飛んで行って、てっぺんに立ててある、総和保育園のマークの描かれた鉄板をグルグル回して遊んでました。
オレは当時公開された『怪獣大戦争』という映画(内容は『X星人』が怪獣を操り、地球を征服しようとする話なんですが、オレはこの作品が怪獣映画の最高峰だと思います)にものすごく感銘を受けていて、プレイスカレプチャーをX星人のUFOに見立てて『X星ごっこ』をよくやりました。
まぁ、今考えると、ませたガキだったんでしょうけど・・・・
飛騨総社の参道をはさんで、園庭があります。

昔は、一番奥に、丸太の枠のブランコがあったと思います。
手前に見えるレンガ造りの門は、運動会の時に、張り子のキリンが乗せられて、入場門になったのですよ。
総和保育園での最初の年、桃組の受持ちはM先生でした。
歌の上手な本当にやさしい先生でした。
当時M先生は、保育園のすぐ隣の家に住んでおられたのですが、その年の秋(確か11月の3日だったと思う)に結婚されて、家が遠くなってしまった、と言っておられたのを憶えています。
2年目の雪組の受持ちはI先生でした。
オレは子供でしたから何も解らずにいましたが、I先生の兄上は仕出し屋をやっておられ、オレの祖父のところで働いた事もあったそうで、そんな関係でI先生はオレの事をよく知っておられたのだそうです。
当時オレはメチャメチャ色の白い子供だったそうで、病的なまでの白さを心配したI先生の紹介で、卒園直前に、ある医院に検査に行った事がありました。
数年前、その事を思い出して、母にその時の結果を聞いてみたところ、「健康そのもので全く問題はない」と言われたのだそうです。
まぁ、病的なまでに色の白かった子供も、今ではオッサンになりましたが・・・・
総和保育園に通う子供は、たいてい家から歩いてきていましたが、中にはバスで通ってくる子もいました。
そういう子たちと中山中学校で再会した時、うれしかったですね。
総和保育園は、この春から西小学校に併設されるわけですが、近い将来、オレが結婚して子供が出来たら、きっと総和保育園に通わせる事になるんでしょうね。
そうなれる事を願っているのですが・・・その前に嫁さんを見つけないと・・・・
では、また。
Ciao. Arrivederci!!
ここ数日、やっと春が近づいてきた事が感じられる陽気になってきましたね。
この2月は、おかげ様で忙しく、定休日も半分は営業したのですが、月末の支払が終って店の通帳を見ると・・・・残高が全然増えてない・・・・
しばらく落ち込みましたが、すぐに立ち直れる・・・というか、嫌な事はすぐに忘れる性格のおかげで、3月も前向きに頑張れそうです。
本題に入る前にひとつ・・・・
先日、ひだっちブログ経由でメールが来ました。
匿名のメールなのですが『お願い』という題で「もう少し店の事を詳しく書いていただけると、遠方の友達にも紹介できるので、ぜひ書いてください。」という内容のものです。
で、返事を出したのですが、戻って来てしまったのですよ。
もし、このメールを出された方が読んでおられたら、店の何について・・・というか、どのような事について詳しく書けばいいのかお報せ下さい。
さて、昨日は、花・花さんのブログにも書かれていた『総和保育園感謝デー』に行って来ました。
ここへ来るのは、もう三十数年ぶりです。
妹もここへ通っていたので、小学5年の頃、よく迎えに来たのですよ。
近所の、同じ学年で、やはり妹と同じ歳の弟を持つO君と一緒によく来たものです。
O君と二人で裏庭へまわり、窓から中を覗いた事を憶えています。
細かいところは少し変わっていますが、建物自体は全然変わっていないですね。
玄関を入ってすぐ左は職員室でしたが、今は図書室みたいになっていました。
玄関の右が遊戯室・・・オレたちは『広間』と呼んでいました。
そのせいか『東京五輪音頭』を聴いた時、『あの日ローマで、え〜眺めた〜月を〜』という出だしを『あの広〜間で』だと思って、月の見える広間ってどんな広間だろう、って真剣に考えた事を憶えています。
今見ると、こんなに狭かったのかな、って思いますけど、あの頃は充分広いと思っていたのですよね。
壁にかけられている『金太郎』の絵も懐かしい!!
夏になると、全員が小さな布団を並べて、ここで昼寝をしたんですよ。
金太郎の絵のすぐそば、一番玄関よりの窓の上の方に、スピーカーの台座が残っていました。
昔はここに、ラッパ型のスピーカーがついていて、外にも内にも向けられるようになっていたのですよ。
先生が窓によじ登って、外で使う時と広間で使う時、向きを変えていましたね。
玄関奥の廊下を左へ行くと、突き当たりがトイレ。
昔は手前半分が男児用で、単に溝があるだけでしたが、今はすべて個室になっていますね。
トイレの右手前が倉庫で、その手前を右に曲がると、右側に給食室と手洗い場、左側に教室が並んでいます。
今はクラスの名前も変わっていますが、昔は手前から、年長組の『雪組』と『月組』、年中組の『星組』でした。
その突き当たりが、今回はスライドを見せる部屋になっていましたが、昔は突き当たりに小さな畳敷きの和室があり、その手前に左に折れる廊下があって、その廊下の右側(和室の隣)が年小組の『花組』、突き当たりが年中組の『桃組』、でした。
それぞれの組の色の、桜の花の形の名札を、スモックの胸につけていました。
オレは2年保育でしたから、1年目が桃組、2年目は雪組でした。
今回は、その桃組の教室を見る事が出来ませんでしたが、裏庭に飛び出した形の桃組の教室が、一番環境的に良かったと思いますね。
昔、星組だった部屋で、総和保育園の歴史とも言える、アルバムが公開されていました。
オレが通っていた年代のアルバムを見ると、その当時のオレが見つかりました。
カメラを向けられると、必ず他の子とは違った顔やポーズをしていました(要するに、その頃から目立ちたがりだったんでしょう)から、こういう時には見つけるのが簡単です。
雪組の教室を覗いてみました。
中へ入ると、こんなに狭かったかな、という感じがしましたが、それよりも、椅子の小さい事!!
当時は木製の椅子でしたが、今のオレなら、2つ積み重ねてちょうどいい位でしょうか。
雪組の向かいが給食室で、その隣に手洗い場があります。
今はステンレスの流しで、湯沸器もついていますが、昔はタイル張りの流しで、もっと狭かったような気がします。
冬、風邪が流行ると、みんながここに並んで、家から持って来た水筒の水でうがいをしたものです。
オレが通っていたとき、こんな物ができたのですよ。
ちょうど『オバQ』のような形の遊具で、『プレイスカレプチャー』というのが正式な名前だと、当時新聞で読んだ母が教えてくれました。
この外側の球面を、鎖を使ってよじ登れるようになっていましたが、今だったら、危険だということで許可されないでしょうね。
オレはこのプレイスカレプチャーが大好きで、休み時間になると真っ先に飛んで行って、てっぺんに立ててある、総和保育園のマークの描かれた鉄板をグルグル回して遊んでました。
オレは当時公開された『怪獣大戦争』という映画(内容は『X星人』が怪獣を操り、地球を征服しようとする話なんですが、オレはこの作品が怪獣映画の最高峰だと思います)にものすごく感銘を受けていて、プレイスカレプチャーをX星人のUFOに見立てて『X星ごっこ』をよくやりました。
まぁ、今考えると、ませたガキだったんでしょうけど・・・・
飛騨総社の参道をはさんで、園庭があります。
昔は、一番奥に、丸太の枠のブランコがあったと思います。
手前に見えるレンガ造りの門は、運動会の時に、張り子のキリンが乗せられて、入場門になったのですよ。
総和保育園での最初の年、桃組の受持ちはM先生でした。
歌の上手な本当にやさしい先生でした。
当時M先生は、保育園のすぐ隣の家に住んでおられたのですが、その年の秋(確か11月の3日だったと思う)に結婚されて、家が遠くなってしまった、と言っておられたのを憶えています。
2年目の雪組の受持ちはI先生でした。
オレは子供でしたから何も解らずにいましたが、I先生の兄上は仕出し屋をやっておられ、オレの祖父のところで働いた事もあったそうで、そんな関係でI先生はオレの事をよく知っておられたのだそうです。
当時オレはメチャメチャ色の白い子供だったそうで、病的なまでの白さを心配したI先生の紹介で、卒園直前に、ある医院に検査に行った事がありました。
数年前、その事を思い出して、母にその時の結果を聞いてみたところ、「健康そのもので全く問題はない」と言われたのだそうです。
まぁ、病的なまでに色の白かった子供も、今ではオッサンになりましたが・・・・
総和保育園に通う子供は、たいてい家から歩いてきていましたが、中にはバスで通ってくる子もいました。
そういう子たちと中山中学校で再会した時、うれしかったですね。
総和保育園は、この春から西小学校に併設されるわけですが、近い将来、オレが結婚して子供が出来たら、きっと総和保育園に通わせる事になるんでしょうね。
そうなれる事を願っているのですが・・・その前に嫁さんを見つけないと・・・・
では、また。
Ciao. Arrivederci!!
Posted by spock at
21:18
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